レシピの記録と記憶の味:食卓史に刻まれた二つの側面
食は人間の根源的な営みであり、その時代の社会や文化を映し出す鏡でもあります。私たちの歴史を紐解く上で、食に関する情報は欠かせません。しかし、その「食卓の歴史」は、必ずしも一つの視点から語られるわけではありません。公式に残されたレシピや献立といった「記録」と、家庭や地域で受け継がれる「味」やそれにまつわる「記憶」の間には、しばしば興味深い差異が見られます。
ウェブサイト「記憶と記録の間」では、こうした公式記録と人々の記憶・伝承との差異から歴史の語られ方を考えてまいりましたが、今回は私たちの最も身近な歴史とも言える「食卓史」に焦点を当ててみましょう。
公式記録としてのレシピ、料理書、献立表
歴史における「食の記録」としては、様々なものが挙げられます。例えば、宮廷や武家の料理書、近代以降であれば学校給食や軍隊食の献立表とレシピ、料理専門家による体系的な料理書、あるいは特定の施設での食事記録などです。
これらの公式な記録は、その時代の食に関する公的な方針、栄養学の考え方、食材の流通状況、あるいは階級による食文化の違いなどを知る上で非常に貴重な資料となります。例えば、明治期以降の学校給食の記録からは、国家が国民の体格向上を目指した栄養管理の思想や、西洋料理の導入といった時代の変化を読み取ることができます。また、戦時中の献立記録からは、物資の不足や代替食材の工夫といった、当時の厳しい社会状況が生々しく伝わってきます。
これらの記録は、ある意図を持って、特定の形式に則って残されたものです。標準化、管理、教育、あるいは後世への伝承(ただし、特定の流派や技術として)といった目的があります。そこに記されているのは、分量、手順、材料といった客観的な(あるいは客観的であろうとした)情報が中心です。
人々の記憶としての「味」、家庭の味、郷土の味
一方で、私たちの「食卓の歴史」を彩るもう一つの側面は、人々の記憶の中に存在します。それは、公式なレシピ集には載らない「おふくろの味」であり、地域で代々伝えられる「郷土の味」であり、あるいは特定の季節や行事に結びついた「思い出の味」です。
これらの「味」は、しばしば数値化されたレシピではなく、「だいたいこれくらい」「火加減はこう」といった感覚的な指示や、親から子へ、祖母から孫へと共に料理をする中で自然と伝えられる手順として受け継がれていきます。使われる食材も、その時々の家庭の経済状況や、近所で手に入るものによって柔軟に変化します。そこには、栄養バランスや効率性といった合理的な基準だけでなく、家族の好み、特別な日の喜び、あるいは日々の生活の苦労といった、個人の経験や感情が深く結びついています。
戦時中の代用食の記憶もその一つでしょう。記録には「米の代わりに○○を使用」とシンプルに記されているかもしれませんが、実際にそれを食べた人々の記憶には、美味しくない中でも家族が少しでも喜ぶように工夫した母親の姿や、皆で食卓を囲むこと自体が安らぎであったといった、記録だけでは捉えきれない豊かな文脈が存在します。
記録と記憶の差異から見えるもの
公式な記録としてのレシピや献立と、人々の記憶の中の「味」。この二つを比較することで、食卓史のより多角的な像が見えてきます。
記録は、時代の大きな流れや社会の構造を示すのに適しています。栄養状態の変遷、新しい食材や調理法の普及、食の産業化などがそれにあたります。しかし、それはあくまで「標準」や「公」の視点からの歴史です。
対照的に、人々の記憶は、個々の家庭やコミュニティにおける食のリアリティ、食が生活や感情にどのように根差していたのかを教えてくれます。それは、愛情の表現であり、文化の継承であり、困難な時代を生き抜く知恵でもありました。記録が「何を食べるべきか」「何を食べたか」を語るなら、記憶は「誰と、どのように、どんな気持ちで食べたか」を語るのです。
この差異が生まれるのは、記録が公的な目的や形式を重視するのに対し、記憶が個人的な経験や感情、非言語的な情報伝達に重きを置くためです。記録は固定され、客観性を目指しますが、記憶は流動的で主観的であり、時に美化されたり、逆に苦い経験として強調されたりもします。
記憶と記録を結びつけて食卓史を考える
歴史をより深く理解するためには、公式なレシピや献立といった記録を参照するだけでなく、そこに記されなかった、あるいは記され得なかった人々の「記憶の味」にも耳を傾ける必要があります。
例えば、ある時代のレシピ集で推奨されている料理があったとします。その記録からは、当時の栄養学に基づいた理想の食卓が見えるかもしれません。しかし、同時に、その料理が実際に一般家庭でどのくらい作られていたのか、家族の評判はどうだったのか、作るのにどれだけ手間がかかったのかといった情報は、レシピ集だけでは分かりません。そうした生きた情報は、当時の人々への聞き取りや、日記、手紙といった個人の記録、あるいは世代を超えて語り継がれる伝承の中に眠っている可能性があります。
公式記録は食の「かたち」を伝え、人々の記憶は食の「こころ」を伝えているとも言えるでしょう。この二つの視点を重ね合わせることで、単なるレシピの変遷ではない、より豊かで、人々の営みに根差した食卓の歴史が見えてくるのです。
私たちの食卓は、単なる栄養補給の場ではなく、文化が生まれ、記憶が刻まれ、愛情が育まれる場所でした。レシピという記録と、記憶の中の「味」というもう一つの記録に目を向けることで、私たちは食卓を通じて語られる、人間性あふれる歴史の多面性を再発見できるのではないでしょうか。それは、「記憶と記録の間」を旅する上で、私たちに多くの示唆を与えてくれるはずです。